法隆寺夢殿の厨子を開扉させた外国人
明治17年(1884)(※1) 夏、法隆寺夢殿〈国宝〉で、寺の僧侶ですら見ることの許されなかった秘仏が、約200 年ぶりに開帳されました。聖徳太子の等身像ともいわれる、救世観音菩薩立像(くせかんのんぼさつりゅうぞう)〈国宝〉です。この開帳に関わったのが、文部省の調査員として古社寺の宝物調査にあたっていたアメリカ人哲学者、アーネスト・フェノロサ。フェノロサは自著『東洋美術史綱(とうようびじゅつしこう)』でこの像を「プロフィルの美しさにおいて、古代ギリシャ彫刻に迫る」と絶賛しています。新関伸也さんは「西洋人であるフェノロサにとって、最上の芸術はギリシャ・ローマ美術。それに匹敵するというのは、彼にとって最高の賛辞でしょう」と語ります。
フェノロサが来日したのは、明治11年(1878)。明治元年(1868)の神仏判然令(神仏分離令)に端を発した廃仏毀釈運動は収束しつつありましたが、西洋文化を重んじるあまり、日本古来の文化を軽視する風潮は依然として続いていました。そんな中、アメリカで美術を学んだフェノロサは日本美術にも興味を持つようになり、東京大学で哲学、政治学などを講義する傍(かたわら)、時間を見つけては奈良・京都の古社寺や古美術商を回るようになります。教え子には、後に東京美術学校(現東京藝術大学の前身)の設立などに活躍する岡倉天心(おかくらてんしん)がおり、彼は常に通訳としてフェノロサに同行していました。
フェノロサは法隆寺がよほど気に入っていたのでしょう、夢殿開扉後も何度も寺を訪れ、金堂〈国宝〉の壁画(※2)をフレスコ画やイタリア・ポンペイの壁画に通じると絶賛し、伝橘夫人念持仏(でんたちばなぶにんねんじぶつ)〈国宝〉を「東アジアにおける仏教美術初期の比類なき花」と褒めたたえています。
※1 明治19年(1886)という説もあります
※2 法隆寺金堂壁画は昭和24年の火災で焼損しており、現在拝観できるのは模写です
日本人とは異なる価値観で奈良の文化財を評価
フェノロサが初めて奈良を訪れたとされるのは、明治13年(1880)。その際、唐招提寺の「仏像集積所のような場所」を見て、衝撃を受けたといいます。「フェノロサがそこで見たのは、破損仏でした。西洋では、ミロのヴィーナスやサモトラケのニケに代表されるように、一部が欠損した彫刻にも美術的な価値を見出します。信仰の対象として、仏像に完全な姿を求めた日本人とは、少し感じ方が違ったのかもしれません」。今も唐招提寺新宝蔵では、“唐招提寺のトルソー”の名で知られる如来形立像(重文)などの破損仏を拝観することができます。
唐招提寺の南にある薬師寺もまた、フェノロサを魅了した寺です。現在はお写経勧進によって昭和以降に再建された色鮮やかな堂塔が立ち並びますが、当時は創建時から残る東塔〈国宝〉のほか、東院堂〈国宝〉、仮堂などが立つだけでした。それでもフェノロサは『東洋美術史綱』に、「薬師寺のなにもかもをひとつの全体としてみる時、その美的価値は、わざわざ多大の時間と費用をかけてアメリカから日本を訪れた研究旅行者の期待に十分応えてくれる」と書き残しています。東院堂の聖観音菩薩立像(しょうかんのんぼさつりゅうぞう)〈国宝〉を法隆寺の救世観音と比較しつつ「ギリシャ的仏像彫刻の典型」と称賛し、本尊薬師三尊像(やくしさんぞんぞう)〈国宝〉については、特に脇侍(わきじ)の日光・月光(にっこう・がっこう)菩薩立像を「おそらく世界で最もすぐれたブロンズの立像」と紹介しています。
写真/法隆寺:夢殿本尊・観音菩薩立像[救世観音]〈国宝〉
(写真:(株)飛鳥園)
日本が欧化政策を進め、日本古来の文化財が軽視されていた明治時代に、その価値を認め、保護に努めたアメリカの哲学者アーネスト・フェノロサ。
日本政府の要請を受け来日した彼は、哲学者・政治学者でありながら美術への造詣も深く、奈良の文化財に、ギリシャ・ローマ美術にも通じる美を見出したといいます。
今年は明治維新から数えて150 年。日本フェノロサ学会事務局長の新関伸也さんと一緒に、改めてフェノロサの足跡と、彼が激賞した文化財を訪ねます。
アーネスト・フェノロサ
アメリカ合衆国の東洋美術史家、哲学者(1853年~1908年)写真:法明院/Ⓒ日本フェノロサ学会